家族ひとりひとりを尊重するための『家族会議』で注目を集める玉居子泰子さんによるエッセイの連載。
私たちがいつの間にか忘れていた“瑞々しいキモチ”を何気ない日常から思い出させてくれます。
「日常にあるモノから楽しみを見出してほしい」そんなAnd MONOの想いを受けて書いてくださいます。日々のことや子育てなど。毎月1日の配信です。
2025年1月号
ー常夏のお正月 〜二人の恩人へ〜ー
乾季に入り気温は三十度を越え、日差しも強い。朝の出勤時間、大通りはバイクの波で溢れ返っていた。
毎朝のように、自分たちが働くオフィスビルの下で、氷がたっぷり入った苦くて甘いコーヒーを飲んでから出勤するのが日課だった。
出社時刻の三十分ほど前に、バイク駐輪場のそばにあるコーヒー屋台に集合するのが私たちの暗黙の了解だ。
”私たち”、と言うのは、少し前にベトナムに引っ越してきた夫と私と、同僚のベトナム人青年二人。一人は私と同い年のTくん。もう一人は、夫よりも少し年上のCさんだった。
毎朝、Cさんが一番に「いつもの場所」に陣取って、プラスチックの小さなお風呂椅子を、四人分出して待っていてくれていた。
私たちが到着すると、「アイスコーヒー三つ、練乳入り一つ」と注文をしてくれて、男性三人はめちゃくちゃ苦くて甘くて濃いブラックコーヒーを、私は甘い練乳入りアイスミルクコーヒーをすすった。
頭がキンとするような甘さと苦さと冷たさが、一日の始まりを教えてくれる。できるだけ日陰に椅子を置き、氷をかき回しながら飲むと汗も少し引いてくる。
歳上のCさんは、ぽっちゃりとした体付きで、いつも汗をかきかきバイクであちこち出掛けて、取引先に書類や荷物を届けたり、注文をとったりするような仕事をしていた。
外回りの帰り道に、市場で甘い「チェー」と呼ばれるシェイクのような餡蜜のようなお菓子を買っては、「はい、お土産」といって私に分けてくれた。ホーチミン市生まれのおぼっちゃまで、常に笑顔で優しくて、面白いことを言っては笑わせてくれる。でも寝不足なのか、目の下に三重くらいの青いクマがあった。
「顔色、悪いよ」と言うと「昨日夜中までテレビ見てたからネ」と答える。ユーモアに溢れた人だった。
Cさんは、私たちがベトナムについてすぐ、家探しから、ホーチミン暮らしに必須のバイクの購入手続きから、安くて美味しい麺を出す店から、朝の市場で食材をぼったくられないように買う方法まで、なんでも教えてくれた。
朝から夕方まで会社で一緒なのに、家に帰るとすぐ電話がかかってきて「コーヒー飲みに行きましょ」と誘ってくれる。夫も私も、他に友達もおらず、毎日のようにTくんとCさんと、運河沿いのカフェでソファに寝そべりながら夜な夜なくだらない話をして笑っていた。TくんとCさんがベトナム語と日本語を混ぜて話すから、少しずつベトナム語も聞き取れるようになっていった。
夫と私は、その年にベトナムにふらりと引っ越しをして、二人で生活を始めたばかりだった。同僚だったTくんとCさんは、私たちがふらりとベトナムに移り住んで以来、二年後に帰国するまで、慣れない異国生活を始めた私たちが、あの街で覚えておくべき掟のすべてを教えてくれた恩人のような人たちだった。
「そうだ、二人は、テトはどうしますか?」とある日、カフェでCさんが訊いた。
「テト」と言うのは、ベトナムのお正月のことで、現在も旧暦を中心に多くの人が生活を営んでいるベトナムでは、「お正月」といえば、一月下旬から二月上旬にある(年によって日が異なるが、およそ10日くらいの休みをとる人が多い)「旧正月」のことを指す。
「まだ何も決めてないなぁ。サイゴン(ホーチミン市)でのんびりするかも」と私が言うと、「あ、ダメダメ! テトはみんな実家に帰る。家族と過ごす。お店もしまっちゃうから、二人もどこか旅行に行ったほうがいいよ」とCさんが言う。
確かに、ホーチミン市にいても旧正月は街が閑散とすると言うことは聞いていた。他の街に旅行に行ってもいいけれど、きっとどこもかしこもお店が閉まっているだろう。
「じゃあー、うちにくる?」突然、Tくんが言った。
「え? Tくんの?」
「そう。うちの実家。ちょっと遠くて、バイクで2時間くらいかかるけど」
ホーチミン市の南東にある小さな村の大家族で育ったT君は、9人きょうだいの末っ子できょうだいの中で一番優秀だったらしい。ご実家は、胡椒農家で、昔はそれほど裕福ではなかったようだったからお兄さんやお姉さんはみな、小学校しか出ていなかったという。末っ子のT君だけは、家族の支援のもと、ホーチミン市にある大学を優秀な成績で卒業した。
出会った頃から日本語を完璧に使いこなしていたT君は、日系企業の通訳兼翻訳者として働いていた。物静かで、丁寧で、礼儀正しく、でも、仲良くなってくると時々辛辣で、毒舌で、よく冗談を言って笑わせてくれた。Tくんは仕事に関してとても真面目で頼りになったし、日本に留学したことがあったから、日本の文化にも詳しくて、夫とは特に気があって、二人でよく話し込んでいた。
夫は「もし、お邪魔じゃないならぜひ、伺いたい」と彼にしては珍しく前のめりになっていた。きっと大都会じゃない場所でベトナムの人たちの暮らしを覗かせてもらいたかったのだろう。Tくんは嬉しそうに笑って、「じゃあ、元旦の朝に出よう」と言った。
夫と私はHONDAのバイクに二人乗りをして、ヘルメットをかぶり、2時間、高速道路の旅に出た。いつもよりスピードを落として、Tくんが誘導してくれる。私は必死に夫の腰に手を回し、吹き飛ばされないようにしがみついた。
2時間後、周囲を胡椒畑に囲まれたT君のご実家にたどり着いた。
広々としたおうちから出てきてくれたのはお母さんで、当時すでに70歳をすぎていた。お兄さんや弟、妹の子どもたちも笑顔で飛び出してきて、一家の出世頭であるT君を歓迎する。
彼らが話すベトナム語は流暢すぎて、私にはあまり理解できなかったけれど、歓迎してくれたのはわかった。
いつもニヒルな T君も、実家でご家族に会ってほっとしたのか、いつもより優しい笑顔を振り撒いて、ご両親や兄弟、いとこや甥、姪を優しく抱きしめて回った。
幼い子どもたちが私の周りにやってきて、手を引いて家に入れてくれる。
家の中には旧正月用に飾った祭壇と、たくさんのフルーツが備えてあり、お母さんとお姉さんが、豪勢なご飯を用意してくださっていた。
「ティービーみる?」と甥っ子の一人が私に話しかけた。「壊れかけてるけど」
家の一番大きな部屋においてあるテレビは、確かに、時々、画面が歪む。そしてそのテレビは数年前に家族のために買ってあげたものだ。甥や姪にせがまれ、修理に励むT君の周りに、たくさんの子どもたちが集まっていた。
彼が、家族みんなを支えているのだ。
じっと彼をみている私に気づいて、T君は笑った。「どうしたの?」
私はなんだか、立派すぎる彼が眩しくて、フルフルと首を振って笑った。
「テレビを直したら、庭に行こう。胡椒があるよ」
T君の家の裏には、見事な胡椒畑が広がっていた。緑の葉がキラキラと陽に輝き、その間に、真っ赤な胡椒がいくつもなっている。黒胡椒よりもずっと高価な「赤胡椒」と言うものだ。「食べてみて。甘いから」
言われるままに一粒とって食べると、まるでフルーツのように甘く酸味があり、その裏で少しだけピリリとした刺激がある。
「おいしい……」そういうと、T君は満足げに笑った。「いくらでも食べて。日本にも持って帰っていいよ」
Tシャツと短パン姿で、洗い立ての髪をサラサラとなびかせて笑うT君は、ホーチミンの街でパリットした整髪剤をつけて、鋭い眼差しをしている彼とは別人のようだった。
家族にずっと笑顔を投げかけ、子供の頃からの友人の家を周り、私たちを紹介してくれて、一緒にお酒を飲んだ。弟たちやいとこ、その子供達・・・何十人もいる親戚の子たちに一人ひとり、赤いポチ袋に入れたお年玉を渡して歩いた。
彼は、本当に眩しいほどに、大人だった。
数日滞在させてもらい、温かいご家族とTくんに見送られて、私たちは先にホーチミン市に戻った。
テト休暇が終わり、また仕事が始まると、私たちは再び、ビルの下のコーヒー屋台の前に集合した。つい数日前にはあんなにも優しい笑顔でキラキラしていたT君は、またニヒルな男に戻って、不機嫌そうにタバコをふかしながら、コーヒーを飲んでいた。
私たちに気づくと、にやりと笑って、「あー、また仕事だ」と愚痴った。
照れくさいのか、あの時のリラックスしたT君には、もうなかなか会えなかった。
二年後、私たちは、ベトナムを離れ、日本でまた再出発するべく帰国をした。それ以降もT君やCさんとは連絡をとっていたけれど、国を跨げば、そうそう合うことも叶わなくなった。
ただ、T君もCさんも、その後日本語を使って、あれよあれよと出世し、T君はご家族と共にカナダで仕事をしているそうだ。Cさんは日系企業を相手に家具を販売する会社を立ち上げ、めちゃくちゃに稼いでいるらしい。
毎年、テトの近くになると、ベトナムの暑い正月を思い出す。Cさんの八重歯が除く笑顔や笑い声、T君のむっつりとした、けれど優しい声や、排気ガスまみれになったバイクの旅や、涼しい風が通る平屋の家で、たくさん出していただいた正月料理や、胡椒ばたけの甘い匂いを。
日本に帰国してからも、何度かベトナムを訪れたし、その度にCさんやT君に会って、話もしたけれど、あの頃の、みんなが若くて、将来に不安を持ちながらもダラダラと汗をかきながらコーヒーを飲んでいた日々は、もうずっと遠くにある。
友達はみんな立派になった。
私たちだけがなんとなくあの日のまま、ベンチに座ってコーヒーを飲んだ正月をただただ懐かしく思い出している。新しい年が来るたびに、あの暑い暑いお正月を思い出している。