家族ひとりひとりを尊重するための『家族会議』で注目を集める玉居子泰子さんによるエッセイの連載。
私たちがいつの間にか忘れていた“瑞々しいキモチ”を何気ない日常から思い出させてくれます。
「日常にあるモノから楽しみを見出してほしい」そんなAnd MONOの想いを受けて書いてくださいます。日々のことや子育てなど。毎月1日の配信です。
2024年11月号
ー父の器で囲む食卓ー
亡き父は、大阪の夜の繁華街で飲食店を経営していた。私が小学生くらいまでは、ほとんど毎日深夜に帰宅する生活で、クリスマスや子供たちの誕生日の夕飯に間に合ったことはなかった。
普段は、昼過ぎまで寝ていて、14時ごろに仕事に出掛けていき、深夜に帰るという暮らしで、お友達のお父さんとはなんだか生活リズムが違うらしい、ということはわかったが、小学生だった私は、父の職業がなんなのか、はっきり理解できず困惑していた。かといって、「なんの仕事をしているの? なんでそんなに帰りが遅いの?」と訊くことは、子供心にもどこかためらわれた。訊いたこともあったはずだが、「事務仕事が忙しいねん」などと言われて終わるので、それ以上突っ込んで聞くことはできなかった。「事務仕事」が何かもわからなかったし、父はしょっちゅう酔っ払って帰宅していた。
父がどんな仕事をしているのか、詳しく知らされないまま大きくなった私だったが、父のことは大好きだった。休日には、よくあちこち遊びに連れて行ってくれた。運動会や発表会にも必ず足を運んでくれたし、地域の子ども会の理事を勤めていたこともある。
遊びも仕事も楽しそうにしているので、父自身が楽しい人だということになんの疑問も感じなかった。
だが、私が中学生のころ、バブルが崩壊した。父の仕事の忙しさと華やかさはまさに風船に穴を開けたかのようにしぼんで、それでもなんとか兄や私を大学まで通わせてくれた。
私たちが成人すると、父は店を完全に閉めた。
その後父は、大阪を離れ、神戸、倉敷、福岡と、暮らしの場所を変え、細々ながらそれぞれの土地を楽しんで暮らしていた。時々訪ねていくと、どの街でも小さな骨董品店を見つけ、気に入った古い器を手にとって、少しずつ器を集めていた。自身もろくろを回すようになり、骨董品店で集めたものと、自分で作った父の器がどんどん増えていって、家の食卓に並ぶのは父の器が大半、ということになった。
父はわがままで気難しいところもあったけれど、子供には優しかった。兄や私にも、怒ったことはほとんどなく、周囲の子供たちにも優しかった。商売はそれほどうまくなかったのかもしれない。信頼していた人に裏切られたり騙されたりもして、辛い思いもしたのだろうけれど、そういうことを口にすることはほとんどなかった。
晩年にはろくろも回せなくなったけれど、自分の手で作った少し歪んだ茶碗を眺めては、「これ、ええやろ?」と家族にみせて笑っていた。
父を亡くして、2年が過ぎた。
家族の誰かを亡くすということは、最上級に寂しいことだ。だが、その深い沼のような悲しみと、締め付けられるような胸の痛みが、時間と共に少しずつ少しずつ和らいでくると、思い出すのは、在し日のおかしな笑顔や、破天荒な態度や、私の頭に乗せた、優しかった手の温もりばかりだ。
そして遺された少しの物にも、その人の影がふわふわと漂っている。時間をかけて少しずつ少しずつ、失ったことへの悔しさや悲しみが薄れ、同時に、かつて優しくそばにいてくれたことへのありがたみが、増えていく。
父の気に入っていた古い食器棚には、今も、父が作った器が並んでいる。欠けているところも歪んでいるところも多く、「食べづらいねん!」と家族で文句を言いながらも、今も私たちは、父が作った茶碗や小皿、小鉢や平鉢に、食材や料理を載せて食卓に並べる。欠けた部分は金で継いである。父が作業していた背中を思い出す。
大切な誰かがいなくなった後も、家族で食卓を囲む時、あの温かな存在は、ふわふわとあちこちに散らばって私たちを見守っている。
欠けたものがある存在が、一層に愛おしいのはそういうわけだ。