家族ひとりひとりを尊重するための『家族会議』で注目を集める玉居子泰子さんによるエッセイの連載。
私たちがいつの間にか忘れていた“瑞々しいキモチ”を何気ない日常から思い出させてくれます。
「日常にあるモノから楽しみを見出してほしい」そんなAnd MONOの想いを受けて書いてくださいます。日々のことや子育てなど。毎月1日の配信です。
2024年10月号
ー傘を忘れないでー
また、傘をなくしてしまった。
私は自他共に認める雨女だ。
幼い頃から、楽しみにしている旅行や遠足、イベントの朝を迎えるたびに、どんよりとした灰色の曇り空や雨音に、ため息をつき続けている。
幼稚園の頃からがっかりし続けてきて、もうがっかりにも慣れた。
どんな人の上にも平等に、お日様は昇り、雨は降る……ということはわかっているけれど、「明日だけは、お日様、どうぞよろしく!」と、てるてる坊主に願った日の翌日は、たいてい雨音とともに目が覚める。
昔の人は雨乞いをしたんだぞ。雨は大事なんだぞ。そう自分に言い聞かせても、楽しみにしている日の雨音は憂鬱だ。
「だが」か、「だから」か、そんな私にとって、雨降りの日に心の支えになってくれるのが傘だ。
雨粒が見えるほどに降っていたら長傘。曇り空なら折り畳み傘。
せっかく雨の日に外出するなら、せめて傘は可愛いものを使いたい。
広げた途端、ハッと気持ちが明るくなる傘があれば、土砂降りのお出かけもなんとかご機嫌に過ごせる。
……はずなのだが……、私は、うっかりがひどい人間で、しょっちゅう、出先で傘をなくしてしまう。小学生の時からそうだった。
かわいい傘を親に買って貰った翌日は、大嫌いな雨が嬉しかった。ウキウキと新品の傘をさして、メリーポピンズ並みにクルクル回りながら学校に行った。
だが、学校の昇降口でにいったん傘を傘立てに刺したが最後、帰宅時の太陽につられて、持ってきたはずの傘のことは忘れてしまう。
傘を持たずに帰宅するたび「また、傘を忘れたやろ!」と母に何度も叱られた。
子供のうちはまだよくて、翌日に急いで行けば、忘れた傘は大抵そこに置いてある。だが、大人になったらなかなか厄介で、出先の喫茶店や電車内で忘れてしまった傘は、なかなか手元に戻らない。
最近は、ご親切にも「傘の置き忘れにご注意ください」と、店先に張り紙がしてあったり、電車内で繰り返し放送が流れたりする。
「そうそう、傘は忘れちゃダメよ」と心の中で反芻する。にもかかわらず、私は相変わらず、懲りずに傘をどこかに忘れてきてしまうのだ。
どうして! と自分を責めたところで、もう遅い。
一方、用心深い夫は、長傘は絶対に使わない。「傘は忘れるものだから、折りたたみを使えばいい」と言う。彼はいつもカバンの中に折りたたみの傘を忍ばせ、仕事に向かう。今日は雨は降らないでしょ、と確信する青空の朝であっても、必ず夫のカバンには折りたたみの傘が控えている。だから、どんなに急な悪天候がきても、彼がずぶ濡れで帰宅することは、ほぼない。えらい、と思う。
感心するのなら、私も夫を真似て、折りたたみ傘一択にすればいいのだが、長傘のうつくしさに惹かれ、数年に一度はあたらしい傘を購入してしまう。そして忘れる。
先日もそうだった。
その日は初めて会う人と仕事でワークショップを行う日で、緊張しながらも楽しみに家を出ようとした。予報では朝のうちは本降りになり、午後には回復する兆しだという。
私は張り切って、つい先日新調したばかりの傘を手に取った。柄の部分はレザーになっていて、傘の表面はシルバーホワイトに艶めく。開くと内側には爽やかなミントグリーンが広がっている。
自宅から駅まで約20分の距離を、私は真新しい傘を広げ、雨音を聞きながらご機嫌に歩いた。
電車に乗り、忘れないよう傘をしっかり掴んだまま、仕事場に向かう。
目的地に到着し、扉の前に置かれてある傘立てに、そっと自分の傘をしまった。
「傘、忘れないようにしなくちゃ。私、すぐ忘れちゃうんですよね」と
予防線を張るように、同行者に話す。
「忘れるよね〜。でも多分今日は帰りも雨だから大丈夫じゃない?」と優しい人は言ってくれる。
私はすっかり安心し、予定していたワークショップに取り組んだ。ワークショップは、カードを使って、家族について自分の思いを発表し合う対話型のもので、全員が初対面であったのに、とても深いところまで話し合いができた。
「またどこかで会いましょう!」とお互い労りあって別れ、駅で別々の方向に別れた。私は一期一会に感謝して、ほくほくした気持ちで電車をいくつか乗り継ぎ、最寄駅に到着した。
そしてまた20分かけて自宅に戻り、慌ただしく洗濯物を取り込み、食事の支度をして、玄関を掃除していると、「……あれ?」。
ない。ない。玄関の傘立てにあるべきものがない!
あの、シャイニーなライトブルーの傘が、ない!!
一体、どこに忘れてきたのか、ワークショップが開かれたスペースか、それとも帰りの電車か。どこまで私はあの素敵な傘と一緒にいたのか。どこで置き去りにしてきてしまったのか!
ワークショップが開催されたスペースや、何度か乗り換えた各路線の、「お忘れ物対応係」の電話番号を一つひとつ調べ、電話をかける。
「持ち手はレザーで白。表面はシャイニーホワイトで、開いて内側から見上げると綺麗なライトグリーンです」
傘の特徴を、聞かれるたびに、私はなんだかポエム調で傘の特徴を伝えた。だって本当に心にポエムが流れるような素敵な傘だったのだ。
「少々お待ちください」と忘れ物対応の駅員さんは丁寧に答えてくれ、5分ほど保留の音楽が流れた後、残念そうな声で「ここ数日の忘れ物を調べましたが、特徴に合致するかさはまだ届いておりません」と報告された。
二つの路線と、三つの駅、それぞれに三日続けて問い合わせをしたけれど、傘はどこにも見当たらなかった。一度しかさしていない美しい傘よ、本当にごめんなさい。と私は自分のうっかりを深く反省し、ポロリと泣いた。
私が無くした傘を、見つけたどなたかが気に入って、代わりにさしてくれているならそれでも構わない。だけど、次の雨のお出かけまでに、もう少し傘を探してみよう。もし見つけられたら、大切に大切にしよう。
子どもの頃から、何度誓ったかわからない誓いを、40を過ぎてまた固く誓った。もう誰も叱ってくれなかった。誰からも叱られないけど、叱られないだけ、余計に悲しかった。