エッセイ『かぞくの記憶』 2024年8月号 ー夏は心がキーンとするー

COLUMN
エッセイ『かぞくの記憶』 2024年8月号  ー夏は心がキーンとするー
家族ひとりひとりを尊重するための『家族会議』で注目を集める玉居子泰子さんによるエッセイの連載。
私たちがいつの間にか忘れていた“瑞々しいキモチ”を何気ない日常から思い出させてくれます。
「日常にあるモノから楽しみを見出してほしい」そんなAnd MONOの想いを受けて書いてくださいます。日々のことや子育てなど。毎月1日の配信です。



2024年8月号
ー夏は心がキーンとするー

 数日前、小さな踏み台に乗って自宅の冷蔵庫の上の棚を整理していたら、ふと懐かしい箱に目がついた。
 ホコリを払って蓋を開けると、ところどころ色が剥げた水色のペンギンが、じっとこちらを見つめている。
 クチバシの口角はきゅっと上がっているが、大きな目玉は微妙に焦点があっていない。
とぼけた顔が、懐かしさを呼び起こす。
 もう40年も前、兄と私がまだ幼い頃に使っていた、今や年代物のかき氷機だ。


 コンセントを電源に繋いで、ペンギンの内側に円く凍らせた氷を設置し、ペンギンの頭をそっと押す。するとウィンウィン、ガリガリ、シャリシャリと、薄い氷の層が、ガラスの器に重なっていくという電動かき氷機だった。
 当時、このペンギンが、わが家に来るまでは、かき氷といえば、ハンドルを手で回して氷を削って作るものだった。ぜえぜえ言いながら、兄と交代しつつハンドルを回し続けても、下に置かれた器は、なかなかいっぱいにはならない。モタモタしていると先に落ちていたはずの氷が溶けていく。食べる頃には、蜜が溶けた水に混ざって薄いジュースのようになった。 
 幼い私は、薄まった蜜が嫌いで、ときどき、泣いた。
 
 それが、ペンギンがうちにきてくれてからは、そんな苦労がなくなった。涼をとりたくて氷を食べたいのに、汗をかいてハンドルを回すという本末転倒的な努力をする必要もない。ペンギンの頭をなでるように押すだけで、ものの20秒でガラスの器に山ができるのだから、感動的だった。
「つぎ、あたし!」
 学校や幼稚園から帰ると、兄と私は、競争しながら、氷をどんどん削っていった。


 透明の器に重なった白い氷の上に、家族がそれぞれお気に入りの蜜をかける。
 レモン、ブドウ、イチゴ、ミカン。母は、夏になると、何種類ものお手製の「かき氷の蜜」を用意してくれていた。
 私が好きな味は、レモン。酸味を抑えて甘くなるようシロップを追加した。
 兄は、いろんな味を虹色のように重ねて、満足気にスプーンで掬って大きな口に入れていた。
 母自身は、自分で作ったシロップは使わず、練乳と小豆を氷の上に乗せて、嬉しそうにシャカシャカと混ぜながら食べていた。
 父だけは「かき氷は歯に沁みる」と言って食べようとせず、自分だけ、ちょっと上等なシャーベットを買ってきて食べていた。シャーベットだって、歯に沁みるだろうに。
 とにかくワクワクしながら、みんなの準備が揃うと、それぞれに匙を使って大きな口を開ける。欲張って入れすぎると、甘さが口の中に広がった直後に悶絶するくらいの「キーン」がやってくる。
「うぉぉぉぉぉ!」
 兄が大袈裟に頭を抑えて痛みに耐える。母も「あ!」と言って顔を顰める。
 私はそんなイージーミスはしないぞ、と、少し控えめの量をスプーンに掬って口に入れる。物足りなくて、もっと頬張る。まだまだいける……あっ!
 結局は、こめかみに刺すような痛みが走り、それはしばらく消えてくれない。くーーっと顔を歪める私を、父が見て笑う。
 ここまでの一連の流れが、かき氷の正しい楽しみ方だった。
 いや、そんなまるでお決まりのコントのような風景は、本当にあったのだろうか。私の記憶の中で作られた、遠いかぞくへの憧憬なのかもしれない。
 ペンギンは、兄と私が大きくなると、お役御免となり、いつしか棚の奥に置かれた。



****
 そんな幼かった頃から、瞬きを何度かしている間に、気づけばずいぶん月日が経ってしまった。その間に、子どもだった私たちは大人になり、家族ができ、子どもたちが生まれた。彼らが少し大きくなった頃、私は、母から、懐かしのペンギンを譲り受けた。


「これ、まだ動くかな?」と言って。
「いや、さすがにもう動かんやろ」と電源を入れてみる。

 動いた。

 かつての兄と私がしたように、息子と娘も大喜びでペンギンの胴体にあの丸い氷を入れ、競争しながらペンギンの頭を押して、かき氷を作った。

 子どもたちが、そのぷっくりとした手で頭を押すと、ペンギンは、よっこらしょとなんとか動き出し、数十年ぶりにガリガリと氷を削ってくれた。その夏、ペンギンはわが家のリビングに登場していたものだ。
 けれど、今度はその子どもたちが、あっという間に大きくなった。
 夏は部活だ、友達とお出かけだ、と忙しくなっていくうちに、いつしかかき氷機は使われなくなっていった。
 何より、コンビニやスーパーに行けば、冷たいアイスキャンディやかき氷は、よりどりみどりだ。夏になっても、ペンギンの出番はない。ただ、捨てるには忍びなくて、私はずっと棚の上にペンギンを保管していた。いや、ただそこに放置して忘れ去っていた、とも言える。


 そして、今、久しぶりに懐かしのペンギンを棚から取り出してみると、ペンギンは私が記憶していたサイズよりずっと小さく、水色は薄くなっていた、傷もたくさん入っている。

「お互い、いい歳になりましたねぇ」

 そんな気持ちで、布巾を濡らして撫でるように頭を拭いた。ずっと忘れ去られていたペンギンは、健気に口角を上げて微笑んでいる。
 その笑顔を見ていると、もはや本当にあったかどうかわからないような、「かぞくでかき氷を食べて冷たさに悶絶した」というお決まりの記憶が、懐かしい痛みと甘さと一緒に蘇ってくる。そこから、父や母や兄の記憶も、その他の家族の記憶も、連なってくる。
 まだ若くて元気だった父や母。やんちゃだった兄とその兄の後ろをついて回った私。時々遊びに来てくれたおじいちゃんやおばあちゃん。いとこや甥っ子。
 もう一緒に海に行かなくなっても、子どもたちが、スポーツや塾通いや、友達との時間に追われて、かぞくとかき氷を食べるようなのんびりした時間がなくなってしまっても、「暑い」ではとても形容できないような暑さが夏になると襲って来るようになって、地球の気候変動について心配せざるを得なくなっても。
 それでも、やっぱり夏が来るたびに、やっぱり心はそよそよと、あの頃の夏に戻っていく。
 あの時、確かに、”かぞく”だったはずの私たちは、今、別々の場所で暮らしている。そのうちの何人かは、するりと何かに呑まれるかのように、遥か遠く空の向こうへ行ってしまった。
 小さい手。キラキラと光が差している大きな黒い目。透明に輝く汗。日焼けをしただけで、なんだか大人っぽくなったように思える子供達を前に、いそいそと冷たい氷を入れて、かき氷を毎日のようにつくっていた日々。
 そうした記憶をひとつひとつ手繰り寄せている私と同じように、どこか遠い目をしているペンギンの頭を、そっと布巾で拭く。体内に、いくつかの氷を入れてみる。

 コンセントを電源に挿して、ペンギンの頭をそっと押してみる。
ガッ……ゆっくりと動き出した。と、思ったのも束の間……ガ……ガ……。……。

 小さな音をいくつかたて、ペンギンはすっかり静かになってしまった。
もう一度氷を定位置に入れ直して、頭を押してみる。
……。

 テーブルに残された氷の塊と、他に使いようがない蜜を前に、私は、もはやまったく動かなくなったペンギンの頭をなで、ベランダの向こうにゆらゆらと洗濯物と外の熱気が揺らぐのを眺める。

 子どもの頃は特別だった夏。親になっても、汗だくになって夏を謳歌している子どもたちの姿を見るだけで、その輝きの中に自分もまた入り込めるような気持ちになった。
 でも、そんな人生のハイライトのような夏は、いつまでもいつまでも続くわけじゃないことを、私たちは、どこかで知っている。
 
 それでも、小さかった子供たちや、優しかったかぞくの笑顔を思って遠くの方を眺めていると、夏は今もそこにいて、私たちを見守ってくれているのが、わかる。
 動かなくなったかき氷機のペンギンの思い出が、月日とともにどんどん変化していく家族の記憶を、大切に冷凍保存しておいてくれている
のを知っている。



 キーン、とする。


 いつかの父や母や兄や私、いつかのあの子達を思って、心がキーン、とする。


 ペンギンの頭を撫でながら、氷を食べてもいないのに、こめかみにそっと指を当てて、私は、その痛みが通り過ぎるのを、待っている。
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