家族ひとりひとりを尊重するための『家族会議』で注目を集める玉居子泰子さんによるエッセイの連載。
私たちがいつの間にか忘れていた“瑞々しいキモチ”を何気ない日常から思い出させてくれます。
「日常にあるモノから楽しみを見出してほしい」そんなAnd MONOの想いを受けて書いてくださいます。日々のことや子育てなど。毎月1日の配信です。
2024年9月号
ー頑張っても頑張らなくてもー
暑く長い夏休みがようやく終わろとしている。
とはいえ、残暑は厳しく、
夏休みが終わることが、私の家事育児労働を少しばかり楽にしてくれるのか、
さらに面倒臭いことにしてくれるのかも、わからない。
変わらずに日々が続いていく錯覚にしがみつくしかないから、
「まあとりあえず、夏休みお疲れさま、楽しかったね、また頑張ろう」という気持ちになる。
と、書きながら、“はて”。
「また頑張る」を強いる必要はあるのだろうか、とも思う。
誰かにも。自分にも。
中にはワクワクと楽しみな気持ちで友達に会いに行く子もいるだろうけれど、そうじゃない子たちも確かにいる。
この日が、過去40年以上に渡り、一年で最もたくさんのこどもたちや若者が命を失ってしまう日であるということを、大人はどう捉えて、どう変えることができるんだろう?
40年前は私もこどもだった。
夏休みには長く、大好きな祖母の家に泊まって、
イグサの匂いがする丁寧に掃除された畳の上で、お昼寝をして過ごした。
ガラスの器に切り分けてくれる桃は、甘くてとろけそうだった。
祖母の家にはクーラーがなかったから、扇風機がウィンウィンとかすかな音を立てて、
心地よい風を送ってくれた。
それだけで、十分に暑さが和らいだ。
風といっしょに、祖母の家の匂いが感じられることも、私の心を柔らかくしてくれた。
ところが、そんな夏休みは、気がつけばあっという間に残り少なくなり、
気持ちはどんどん萎れていく。
祖母宅から自宅に戻された時点で、机の上に残る大量の宿題を見て、ゾッとする。
なんとか、それらをやっつけて、
夏休みが終わった次の日に、ランドセルを背負うと、異様に重かった。
帽子の黄色は、鮮やかすぎた。
上履きは、親指のところが、少しつっかえた。
9月1日に家の扉を開けながら、
「ああ、また頑張らないといけないんだなぁ」と私は思った。
そもそも、「頑張る」は、誰かに強いられてできることじゃないはずなのに。
私たちは、「頑張れ」と言われたとおりに、何かができないと、自分がいけないんじゃないか、と勘違いしてしまう。
だけど本来、「頑張る」は、自分の内側からもりもりとエネルギーが沸き起こって、どうにもこうにも頑張ってしまうときにだけ、そうなる、ものだ。
いや、そもそも、そもそも。
「頑張らない」、っていう状態はなんなのか。
力が出ない時、心が萎んでいる時、頭も心もぼんやりするとき、少し前に頑張りすぎたとき、
わたしたちが、何をおいても最優先にするべきことは、
「頑張らないこと」じゃないんだろうか。
まわりになんと言われようとも、
省エネモードをオンにして、
お気に入りのコップで美味しいジュースやコーヒーでも飲んで、
だらりとソファに寝転んで
ときどき雲を眺めてしずかに息をすればいい。
いつか祖母の家でしていたみたいに、タオルケットにくるまってのんびりしてみたらいい。
そのせいで、遅刻したって、忘れ物をしたって、別にいいのだ。
髪の毛がボサボサでも、
お化粧が全然決まらなくても、
なんならもう、2、3日休んでも構わない。
みんなが一斉に、同じ日に、頑張らなくたっていいのだ。
空を眺めるのにも、いよいよ飽きた頃、私たちは必ず、また内側にふつふつと生まれるなにかにまた突き動かされるはずなのだから。
きっと、絶対に、そうなるのだから。
だから安心して、ああ、いやだいやだ、明日から学校だ、明日からまた仕事だと、うだうだ言いながら、夏の終わりに悪態をついたって、いいのだ。
記憶の向こうにいる優しい人の声を思い出して、ポロリと泣いたっていいのだ。
そうやって、毎年のように夏休みの始まりと終わりに、思う存分、翻弄されたって、いいのだ。
そんなことを思いながら、
子どもたちが、律儀に学校に向かって行ったあと、
とりあえず、私はポットにお湯を沸かし、豆を挽いてコーヒーを淹れる。
いつもよりゆっくり。
いろいろなことを思い出しながら、風を感じる。